制作者のことば

プロデューサー 川井田 博幸

日本の経済至上主義が生み出した景観

多くの日本人が景観というものを意識しなくなったのは、いつ頃からだろうか?

車という移動のイエが、道路を我が物顔に闊歩するようになって久しい。道はそもそもそれぞれの歩幅でゆっくり歩くものとして作られたはずなのだが、それが馬車に変わり、自転車から自動車に変化するに連れて、道は急ぐ媒体として機能し始めた。日本の伝統的な街並みは、ゆっくりとした時間軸の中で育っていったからこそ、人々はその沿道を自分の歩幅で歩く楽しみを持ち続けてきた。決して真っ直ぐでない湾曲の道を。

私がこの映画を発案したのは、日本の各地において、山に囲まれ豊かな川に導かれる自然と歴史に支えられた、そのゆっくりとした営みが放棄されようとしているように思われ、そこに激しい憤りを感じたからであった。駅前の商店街は、シャッターが閉じられ、それとは対照的な高層マンションが異様に聳え立つ。郊外のショッピングモールは、東京資本の店で賑わう。都市の有り様は、依然として東京という巨大な資本経済の中心地に向けられたまま一向に変わろうとしない現実。それは、どこまでも便利、楽といういわば合言葉として生き続けている。

地方で映画をつくること

民俗学者・柳田國男は、「君たちはすぐ東京で常識を作ろうとするから困る」と言って若い人たちを戒めた。私も、 映画というかつてマスメディアの中心的存在の多くが、依然として東京という大都市で企画され、生産されるということに疑問があった。地方は、東京と比較すると、経済規模こそ何十分の一、あるいは何百分の一だが、歴史や文化の遺産が、記録するための貴重な資源として沢山眠っている。そして人々がそこで生活し、日々その歴史を刻んでいる。ここ八女福島では、緩やかな共同体を育むことによって町並みと伝統を守ってきた。そして今、若者や外から移り住んできた人たちによって、さらに新しい方向性を築こうとしている。それらを記録することが、今の自分にとって、故郷九州を拠点とした活動のきっかけとなると考えた。

製作の過程では当然困難も伴った。地元発信とするために地元の人たちからの賛同を得る必要があった。映画を作ることによって、果たしてまちの景観を守ることに繋がるのか、との声に対し、相互の溝を埋めるためには、相応の時間を要した。しかし幾度も話し合いを重ね、やがて製作委員会が発足し、さらに地元での上映会が成功を収めた。

一方、八女の町に監督自ら住みながら、この2年間記録作業を続けてきた。住人であるが故に、生活者の顔と記録者の顔との混同が、作品をある複雑さの中に押し込めていったことは否めない。だが、それらの困難を漸く乗り越え、やがて映画は地元の人達と繋がっていった。

本映画は、「八女福島」の数百年の歴史のほんの断片(刹那)を切り取ったに過ぎず、まだ出発点に立たされたに過ぎない。だが、映像によって記録し、八女福島から発信することで、自己の指針を築くことが出来たと確信したい。そう思えるのも、映画のテーマでもある「コミュニティ」という言葉が、ここにしっかりと根を下ろしていたからに違いない。

製作委員会の方々と八女福島の皆さん、そしてご協力頂いた全ての方に心より感謝の意を表したい。

 

監督 伊藤 有紀

「豊かさの中で」

八女市の福島地区には古い町家がたくさん残っています。私はその町家に妻と暮らしながら、およそ二年かけてこの映画を作りました。町家の修理工事はとても手間のかかるもので、この映画の撮影では、ある町家の工事に半年かけて通いました。少しずつ少しずつ、職人さんが手仕事で修理していくため、それくらいかかってしまうのです。

その撮影中、福島地区の郊外で大手スーパーの建設が始まりました。で、文字通り「アッ」という間にスーパーは完成し、早速、たくさんの客が訪れていました。町家の修理現場に通っていた私は「はやっ!」と思いました。しかしすぐに「違う違う、現代では大手スーパーの方が普通で、町家の方が遅いんだよな」と思い直しました。

福島地区には、大手スーパーのようなスピードも効率もない代わりに、現代日本から失われつつあるさまざまな豊かさが残っています。本物の技術で修理される町並みがあり、たっぷり時間をかけられる人と人とのつながりがあります。私たち夫婦にまだ子はおりませんが、子育てをするならこの豊かさの中で、町の人達に見守られながらしたいね、という想いは共通しています。そしてその想いは、映画を完成させてますます強くなっているところです。